「それでは、ラシュリル様。離宮の暖炉に火を入れてきます」
「ええ。頼んだわ、ナヤタ」
「じっとしていてくださいね」
「分かっているわよ」
ナヤタが、そわそわと落ち着かないラシュリルを冷やかして、笑いながら部屋を出ていく。部扉が閉まると同時に、ラシュリルは深いため息をついた。
壁に掛けられた大きな鏡の前に立って、体の向きを変えては髪や衣装を確認する。身にまとっているドレスは、マリージェにお願いして有名なデザイナーに仕立ててもらったものだ。
キリスヤーナで採れる鉱物から作る顔料で染めあげたサテンの生地。キリスヤーナの瑠璃でなくては、こんなに深い群青色には染まらない。夏の漁のあと、雪が降りはじめる前に採掘される瑠璃はとても貴重で、カデュラス国王への献上品にもなっている。
ふんわりと大きく膨らんだスカートの上をさらりと流れる同色のレースが、穏やかに波立つ夏の海のような大人びた一着だ。普段は無造作におろしている前髪を、貴婦人たちのように後ろ髪と一緒に結ってみた。化粧だって、いつもより気合が入っている。挑戦した大人の領域。
ナヤタは似合うと言ってくれたけれど、彼の人の目にはどう映るかしら。そう思うと、ますます心が落ち着かなくなって頬が熱くなる。まさに今、カデュラス国王が階下の大広間でハウエルや貴族たちの歓迎を受けているのだ。
「お義姉様は心が安らぐっておっしゃったのに、わたしはそうじゃないわ。アユル様にお会いすると思うだけで、胸がどきどきしておかしくなってしまいそう。これは、一体なんなのかしら」
鏡の向こうの自分に問いかけて、うなじのおくれ毛をかき上げる。その時、部屋の扉をたたく音とアイデルの声がした。いよいよ、案内役の出番だ。
「陛下、こちらをどうぞ。体が温まります」
ハウエルが、慣れた手つきでティーカップに角砂糖を一顆落として、ティースプーンでかき混ぜる。アユルはそれを見ながら、馬車の窓からながめたヘラートの街並みを思い出していた。街を蛇行する凍りついた運河と連なる煉瓦造りの古い建物。そして、除雪された基幹道路の脇に並んだ兵士たち。他に人の姿はなく、ヘラートは生気のない無人の廃墟群のようだった。
「禁令でも出したのか?」
「はい?」
「王都に人がいなかった」
「……ああ、はい。我が国にカデュラスの国王陛下がお越しになられるのは数百年ぶりです。禁令を出さなければ、陛下の御姿をひと目見ようと民衆が殺到します。人が集まれば、なにが起きるか分かりません」
アユルの問いに、ハウエルが右手を胸に当てて得意気に答える。それからハウエルはラディエに会釈して、ジュストコールの襟を正した。ラディエが満足げにうなずいて、ハウエルがアユルに視線を戻す。ハウエルは、愛嬌たっぷりの笑顔で少し首を傾けた。これは、彼が他人と上手くやろうとする時のくせだ。アユルは、ハウエルを見据えて頬杖をついた。
「まるで、なにか起きそうな言い方だな」
「い、いいえ、滅相もない。深い意味はありません。曲解なさらないでください」
「冗談だ」
ハウエルは、ごくりと生唾を飲んだ。一度見てしまうと、そらせなくなるカデュラス国王の目。同じ黒色なのに、天真爛漫な妹の瞳とはまるで違う。友好的ではない表情と相まって、無限の闇のように不気味で、なにを考えていてどんな感情でいるのか、まったくつかめない。ただ、冗談ではないことだけ一目瞭然だ。
「王女ラシュリル・リュゼ・キリスを陛下の御前へ」
アユルと目を合わせたまま、ハウエルが真顔で言った。衛兵の一人がドアの取っ手を引く。皆の視線がそちらに集中する。
この大広間は、カリノス宮殿で一番広くて美しい部屋だ。天井には幻想的な絵が描かれている。銀色の雲の合間から射す太陽の光と背から羽の生えた子供たち。そして、太陽を指さす長い黒髪の男。その足元には、金色の頭に王冠を載せた男がひざまずく。古い神話の一場面を描いたとされているが、黒髪の男は大陸を征服したカデュラス国初代王であり、ひざまずいているのは第十二代キリスヤーナ国王だ。
ラシュリルは大広間に入って一礼すると、つまずかないようにドレスをつまみ上げた。そして、並んでいる丸テーブルの間を進んで上席を目指した。
「妹のラシュリルです。一度カデュラスでご紹介いたしましたが、覚えておられるでしょうか?」
「もちろん、よく覚えている」
いつもの調子で淡々と答えて、アユルはティーカップを手に取る。そして、紅茶を口に含んだ時、ハウエルがラシュリルの隣に立って笑顔で首をかしげた。
「妹が陛下の案内役を務めさせていただきます。なんなりとお申しつけください」
アユルは顔をしかめる。口に残る、ハウエルが入れた砂糖甘い味。口内の粘膜にべっとりと張りつくような感じが嫌いだ。ラシュリルの横で、ハウエルがごくりと喉を鳴らす。
「妹ではご不満でしょうか?」
「そなたの妹に不満などない」
じゃあ、どうして嫌そうな顔をしているんだ。ハウエルは、心の中で舌打ちする。しかし、それを表面に出してしまえば一巻の終りだ。アユルが砂糖の味に反応しただけだとは露ほども思わず、ハウエルは笑顔を保ったままラシュリルに言った。
「陛下を離宮へ案内してさし上げて」
「はい、お兄様」
ラシュリルは、アユルの前で深く一礼した。しっかりと交わる二人の視線。あの夜と同じ漆黒の瞳が心を揺さぶる。見つめられると、苦しいくらいに胸がどきどきとして冷静でいられなくなる。
――いけない、皆が見ているわ。
ラシュリルは、視線をはずしてアユルに「こちらへ」と言った。その声に、貴族たちが一斉に起立する。アユルは席を立って、ラシュリルの後を追った。大広間を退出する間際に何気なくふり返ると、深々と頭をさげる貴族たちの向こうで、ハウエルが首をかしげてにこりと笑っていた。
「王女殿」
宮殿の裏口を出て石段をおりようとした時、ラシュリルはラディエに呼び止められた。体格のよさに加えて、眉間にしわが刻まれたラディエの強面に恐々としてしまう。
「離宮は、ここから遠いのでしょうか?」
「少し距離があります」
「そうですか。寒いので、急いでいただけますか?」
「はい、宰相様」
見かけとは違い、ラディエは穏やかな声をしていた。ラシュリルは、ほっとして石段をおりると、後ろを気遣いながら回廊を進んだ。離宮へ向かう回廊は、ラシュリルのお気に入りの場所だ。夏はここで涼風に吹かれながら本を読み、冬は積雪の庭にできたひだまりをながめる。
回廊が二手に分かれる手前で、後ろの足音がぴたりと止んだ。ふり返ると、アユルが回廊の端に寄って空を見上げていた。近づいて、同じように空を見る。しかし、雪がはらりはらりと落ちてくるだけで、なんの変哲もない。
「どうかなさいましたか?」
「雪……」
「雪が珍しいのですか?」
「初めて見た。カデュラスに雪は降らないからな」
「そうなのですね。おとといは吹雪で前が見えないくらいで……」
白い肌に薄く色づいた唇。ラシュリルの目が、無意識にアユルの口元をとらえる。弾力と温かさ。よみがえる記憶に、ラシュリルの頬がぽっと赤く染まった。
――だめだめ、だめよ。わたしったら!
急に黙ってしまったラシュリルの顔を、アユルが怪訝な表情で覗き込む。その時、ラディエが二人の間に割って入った。
「王女殿。申し訳ないが、陛下から離れていただきたい」
「ご、ごめんなさいっ」
ラディエが、ラシュリルをにらみつけて威圧する。すっかり萎縮してしまったラシュリルを見て、アユルはラディエの肩をがしっとつかんだ。
「宰相、怖い顔をするな」
「ですが、陛下」
「その者がなにかしたか?」
「恐れ多くも、陛下になれなれしく近づいて声をかけるなど、あってはならぬことですので」
「十歩ほど離れて歩け」
「は?」
「聞こえなかったか? 十歩離れろと言ったのだ」
「……陛下!」
「王命だ」
「……くっ」
王命と言われたら、さすがの宰相も逆らえない。ラディエは、十歩後ろにさがって顔を伏せた。困惑するラシュリルに、寒い、早く離宮へとアユルが催促する。ラシュリルは、小さく返事をして二手に分かれる回廊を指さした。
「宰相様のお部屋は、あちらの建物にご用意しております。ここからは侍女のナヤタが宰相様をご案内いたします。皆さんが荷物を片づけている最中だと思うのですが……」
ラディエが、陛下を離宮に送り届けると言う。アユルはラディエに向かって首を横に振った。
「心配しなくてもコルダが傍にいる」
「コルダ一人では心配です」
「皆、長旅で疲れているだろう。早く荷を片づけて休ませてやれ。余も少し休みたい」
ラディエはコルダに注意を怠るなと念を押して、ナヤタと一緒に回廊を右に折れて行った。
「やっと、邪魔がいなくなった。王女殿、案内を頼む」
「はい、アユル様」
ラシュリルとアユルは、除雪された森の一本道を歩いて離宮を目指した。コルダは、並んで歩く二人の後ろ姿をほほえましく見ていた。その間も、後ろを警戒して誰もいないことを確認する。どんな話をしているのか、この距離では聞き取れない。しかし、見合って笑っている二人はとても楽しそうだ。いつまでも続けばいいのに、とコルダは思った。しかし、あっという間に離宮に着いてしまった。
ラシュリルが二人を案内した部屋は、一階の広い客室だった。白を基調とした広い室内には、鏡台や家具、天蓋のついた金細工のベッド置かれていて、東側の窓には青色が際立つ鮮やかなステンドグラスがはめこまれていた。
アユルは外套をコルダに預けると、ばちばちと音を立てる暖炉の前に立ってかじかんだ手をかざした。コルダが、隣の部屋で片づけをすると告げて部屋を出ていく。ラシュリルは、アユルの背に目を向けた。あの大きな背中を触ってみたら、どきどきとする胸のざわめきが落ち着いて、お義姉様の言うように心が安らぐのかしら。手を伸ばして、遠慮がちに黒い衣をつかむ。そして、背中に寄り添うように体をくっつけた。
「冷たい手で触れたらかわいそうだと思って、こらえているのに」
「えっ?」
「まだ冷たいが、我慢しろ」
ふり返ったアユルが、両手でラシュリルの頬を包む。ラシュリルは、アユルを見上げて目をぱちくりさせた。冷たい手が火照る頬に気持ちいい。ラシュリルは、アユルの手に自分の手を重ねた。
「会いたかった」
低くい声が、聴覚から体に侵入して琴線に触れる。嬉しい。真っ先に浮かんだ言葉はそれだった。わたしも、と言おうとした刹那、顔に影がかかって唇が重なった。軽くかすめるように触れて、薄い唇が下唇を食む。あの朝と同じ、慈しむような優しいくちづけ。言葉はなくても気持ちが伝わってくる。
「ラシュリル様」
ドアの向こうから、ナヤタの声がした。ラシュリルが、体をびくりとさせてアユルから離れようとする。その様子に、アユルは驚いた。
「まさか、侍女に私とのことを言ってないのか?」
「はい……。言っていません」
「なぜだ。あの者には、隠し事をしたくないのだろう?」
「そうですけど……」
離れた体を引き寄せられて、ラシュリルは戸惑いながらアユルの顔をあおぐ。こんなところを見られたら、とても言い訳できない。逃れようとすると、さらに強い力で抱きしめられた。
「そなたは正直で、実があるのだな」
「いいえ。アユル様を信じたいと思いながら、心のどこかで疑っていたのです。だから、ナヤタにも言えなくて……」
「それは是非もない。私が、そう思われて然るべきことをしたのだから」
ラシュリル様、とドアの向こうでナヤタが呼ぶ。
骨ばった指が頬に触れ、ほつれた髪を耳に掛けた。優しいまなざしが、視線をとらえて離さない。ラシュリルが「アユル様」と小さく声を発した時、ナヤタが再びラシュリルを呼んだ。
「早く行ってやれ」
「はい」
その夜、カリノス宮殿の白銀の間で、カデュラス国王をもてなす晩餐が開かれた。カデュラス国王と同席を許されたのは、キリス家の者と侯爵以上の貴族のみで、他は別室に宴席が設けられた。
上品な金のクロスが掛けられたテーブルをはさんで、アユルとハウエルが向かい合う。アユルの両隣にはラディエと文官が座り、ハウエルの両隣にはマリージェとラシュリルが並んだ。
ハウエルは話し好きのようで、食事をしながら次から次に話題を持ち出して場を湧かせた。堅物のラディエが声を出して笑った時、アユルは驚愕してハウエルの才能を認めざるを得なかった。
「ところで、陛下はご結婚なされたそうですね」
話が途切れた隙間に、ハウエルが尋ねた。
アユルは、ちらりとハウエルの横を見た。視線に気づいたラシュリルが、上品に咀嚼しながらにこりとする。ワインを喉に流しこんで、アユルは「ああ」と素っ気ない返事をした。
「新婚早々、王妃様がお寂しいのではございませんか?」
ハウエルが、さらに質問をぶつけてくる。アユルは、勘弁してくれとばかりに黙り込む。すると、今度はラディエがアユルの代わりに答えた。
「陛下は王妃様をとても大事になさっておいでです。王妃様はよくわきまえられたお方ですので、王宮で立派に務めを果たしておいででしょう」
これ以上、陛下の私生活に踏み込むなという牽制だった。それを察したハウエルは、すぐに別の話題を持ち出して皆を笑わせた。そんな中、ラシュリルが席を立って、静かに白銀の間を出ていった。
「失礼をお許しください、陛下。妹は少し疲れてしまったようです」
「大事ないのか?」
「部屋でゆっくり休めば大丈夫だと思います。今日は一日中、気を張っていたのでしょう」
「それならよい。余も離宮に戻って休む」
「お見送りいたします、陛下」
「結構だ。宰相がそなたの相手をする。余に構わず続けるがよい」
王妃を大事にしている。そのようにふる舞ったのだから、ラディエの答えは妥当だった。だが、ラシュリルはどう思ったのだろうか。そもそも、王妃のことを知っていたのだろうか。たいして気にしていないように見えたが……。
離宮の浴室で湯につかりながら、アユルはああでもないこうでもないと答えの出ない考えを巡らす。
「いかがですか、アユル様。安らぐ香りでございますね」
コルダが、石鹸を泡立ててアユルの上腕を指先で揉む。
「なんの匂いだ?」
「さあ。置いてありましたので、ありがたく使わせていただきました」
「不用心だな」
「いえ、害のないものだと確認してあります。ご安心ください」
「確かめたのに、なんの匂いか分からないのか?」
「聞いたのですが、忘れてしまったのですよ」
「誰に聞いた?」
「王女様の侍女です」
ラシュリルが、ジャスミンの香りをまとったアユルを想像して笑っていたことなど知る由もない。アユルは、それから黙ってコルダに身を任せた。部屋に戻ると、アユルは棚から書物を一冊取ってベッドに上がった。同行している文官が記したサリタカルでの記録だ。王として、表向きの用事は淡々とこなさなければならない。
「アユル様。ご用がなければ、わたくしは失礼いたします」
「分かった」
「では、おやすみなさいませ」
ぱたりと扉が閉まって、廊下の明かりが消える。アユルは、うつ伏せになって記録に目を通した。どれくらいの時がたっただろうか。部屋の扉が開いて、人が入ってきた。コルダが戻ってきたのだろう。しかし、黙って入ってくるなどコルダらしくない。人の気配がすぐそこまで迫って、アユルはたまらず書物を閉じて体を起こした。
「コルダ。どうし……、た?」
夜になると、遠くの海から獣の低いうなり声のようなものが聞こえてくる。その正体は、海上に吹き荒れる強風と流氷同士がぶつかって重なり合う音だ。昔、他国から流れ着いた旅人が、悪魔の叫び声だと言ったのだとか。確かにそのとおりかもしれない。昼間の美しい白銀の世界では気にもならないのに、月のない闇夜に響くそれは、とても不気味で恐怖心をあおる。
「ごめんなさい、アユル様。驚かせてしまって」
目を点にするアユルを横目に、ラシュリルはベッドの端にちょこんと腰かけた。外套を脱いで、サイドテーブルに置く。時間もなかったし、人目につく格好はできないから、デザビエのまま宮殿を出てきた。
背中に注がれる視線が痛く感じて、やっぱりやめておけばよかったと後悔の念にかられてしまう。けれど、顔を見たくて話しをしたくて……。ふうっとため息をつくと、ベッドが揺れて後ろから抱きしめられた。耳朶を優しい吐息がくすぐって、それから頬と頬とがくっつく。
「体が冷たいな」
「ご迷惑かと思って、離宮の前で迷っていました」
「外は寒かっただろう?」
「怒らないのですか?」
「そうだな。夜に忍び込んでくるとは、大胆極まりない王女様だ」
くすっと笑われて、ラシュリルは体をひねった。そして、「ごご、ごめんなさい!」と慌てて叫ぶ。勢いあまって、アユルを押し倒してしまったのだ。咄嗟の行動とはいえ、顔の両脇に手をついて、おなかに馬乗りになって、まるで襲いかかっているような格好だ。普段からおしとやかにしておけばよかった。今になって、お転婆な自分を猛省してしまう。顔を真っ赤にしたラシュリルが、目に涙をためて困り果てる。それがかわいくて、おかしくて、アユルは声を出して笑った。
「そんなに笑わないでください」
「押し倒されるのも悪くはない」
「おっ、押し倒したわけでは……!」
「押し倒されるのも悪くはないが、まずは氷のような体を温めるのが先だな」
二本の腕に体を引き寄せられて、ラシュリルはアユルの胸に身を預けた。規則正しい心音と体温が、衣を通して頬に伝わってくる。
「お顔を見たら、安心しました」
「嘘が下手だな。声が震えているぞ」
「う……、嘘ではありません」
「王妃のことは、先に私の口から言うべきだった。許せ」
ラシュリルは、首をもたげてアユルの目を見つめた。ついさっきまで笑っていたのに、黒い鉱石のような瞳から真面目なまなざしが返ってくる。
「そのことが気掛かりだったのだろう?」
「少しだけ」
「本当に少しだけか?」
「それは……。少しじゃない、かもしれません」
「私は、そ……ぬ、ぐっ」
しなやかな手に口をふさがれて、アユルは口ごもった。王妃様のことなら、なにも言わないでください。ラシュリルが、今にも切れてしまいそうな糸のように細い声で言う。アユルは、口をふさいでいるラシュリルの細い手首をつかんだ。その拍子に、ラシュリルの右目からぽたっとしずくが頬に落ちてきた。
「ラシュリル」
名を呼べば、もう一滴、黒瑪瑙がはめ込まれた綺麗な目から涙が落ちた。果実のように瑞々しい唇が弧を描く美しさには、この世のどんな花も敵わない。見たいのは悲しい顔ではなく太陽のようなまぶしい笑顔なのに、それを奪っているのは私だ。ラシュリルの目のふちを親指で拭って、アユルはその指の腹を柔らかな唇に乗せた。
「私は、そなたがいい」
望むのはただ一人。傍で笑ってくれるのなら、どのようなことでもする。部屋を照らす蜜ろうそくの暖かな色の光が揺らいで、暖炉の中で薪がばちっと激しく炎に弾かれた。
「アユル様」
ラシュリルは、アユルの唇に自分の唇をそっと重ねた。上手なやり方なんて分からない。鼻先がぶつからないように気をつけながら、形のいい薄い唇に軽く触れて吸いついてみる。すると、アユルが唇をおしつけて舌をさし込んできた。背中に回された腕が、ぐっと二人の隙間を埋めるように体を力強く抱きしめる。
「……ん、ふっ」
二人の熱が、ゆっくりと交わっていく。時間をかけて、舌と舌がねじれながら絡み合った。服をまさぐって胸の稜線をとらえる手が、ラシュリルをあの夜に引き戻す。海にさらわれて、月明かりに揺れる海原の波に沈んでいくような感覚。あの夜と違うのは深さだろうか。ラシュリルは、アユルのうなじに腕を回した。こんなに気持ちのいい温かさを他には知らない。
「……っ」
口の中がとろけて、甘い唾液で満たされる。それを飲み下すと、左胸の鼓動がどくどくと加速して体の奥がじんとうずき始めた。
「はぁ……っ」
唇が離れて、ラシュリルは大きく息をする。視界がぐるりと回転して、二人の体が入れ替わった。頬をちゅっと吸われて、「くすぐったい」と言ってはにかむと、ワンピースのスカートをたくし上げられて下着を取り除かれた。アユルが、膝でラシュリルの両脚を開いて体を滑り込ませる。そして、ラシュリルの目を見つめながら指先を秘苑に伸ばした。
「ん……、あっ」
恥ずかしい。ラシュリルが手の甲で口をふさぐと、アユルの顔が近づいてきた。こりこりと、下の尖りを指の腹で擦られる。
「ぅ……ん、あぁ……っ」
間近で見つめられながら恥ずかしい場所を触られて、ラシュリルはたまらず顔を横に背けた。すると、太ももの裏を持ち上げられて、生温いものが秘裂をなでた。ラシュリルが自分の下半身に目を向けると、アユルがそこに顔をうずめていた。
「だ、だめ……っ、そんな……っ!」
顔を両手で覆って、ラシュリルは身をよじる。時折、湿った吐息をかけながら、アユルが花唇の中を舐め回す。恥ずかしくてたまらないのに、気持ちよくて体が震えてしまう。ちろちろと舌先がいきり立った花芽を突いて、唇がそれに吸いつく。身もだえるような感覚と体の火照りに、ラシュリルの口から熱くて甘い息がもれた。嫌、恥ずかしいからやめてと言えば、そこを執拗に舐められて、吸われて、食らいつくように愛撫される。
「あっ、あぁ……んっ」
舌と唇で散々ほぐされて、恥蜜と唾液で濡れそぼった蜜口に指を突き立てられた。くちゅっと指を飲み込む音に、ラシュリルは頬を赤くして眉根を寄せた。行き場のない快感を逃そうと、夢中でシーツを逆手に握る。服の中で、上半身が汗ばんでいる。アユルの指が中で動き始めると、全身がぞくぞくと粟立った。つんと尖った胸の中心が、更紗の生地にこすれて、痛みと共に快感を増幅させる。
アユルが、指を引き抜いて夜着を左右に開いてくつろげた。そして、ぬかるんだ蜜口に先端をおしつけた。
「アユル様、わたし……ぅんっ」
ラシュリルの言葉は、最後まで紡がれることなくアユルの唇に奪われてしまった。硬く熱い男の一部が、ゆっくりと膣壁を押し広げながら入ってくる。貫かれる時の感覚は、苦痛なのか歓びなのか。今は、それを考える余裕はない。
「……ああぁっ、んんっ!」
たっぷりと潤んだ肉襞が、蠢きながらきつく締めつけてくる。アユルはくちづけたまま、離れた場所でシールを握り締めているラシュリルの手に自分の手を重ねた。口の中でラシュリルの舌を捕まえて、ゆっくりと腰を動かす。
「ラシュリル」
耳を、低い声がくすぐる。ふわりとジャスミンが香って、ラシュリルは目を開けた。とても心が安らいだ。一方で、激しい心臓の音の奥から、身を焦がすような気持ちが湧いてくる。ラシュリルは、手を握り返してアユルの頬に唇を寄せた。
擦過の熱に、二人の体が深く結びつく。中が、とても熱い。強弱をつけて深い場所を突き上げ、じらすように浅い所を攻めてくる。
「ん……っ、あっ、ああ……っ、んっ、ああぁ……っ!」
意識が千切れた雲のように散って、ラシュリルの腰がびくんとはねた。
アユルが、ラシュリルの体を抱き起こして太ももの上に座らせる。そして、男根を咥えたままぐったりするラシュリルの首に顔をうずめて、汗ばんだ柔肌を舐めた。ラシュリルは、霞んだ意識の中をさまよっている。アユルは、ラシュリルの背中を手探りながら、服のボタンをはずしにかかった。実に脱がせにくい服だ。なんとかボタンをはずして、ラシュリルの頭から上着とスカートが一繋ぎになった服を抜く。そして、目の前で弾むように揺れる乳房に手を添えると、上を向いてそそり立つ淡い蕾を口に含んだ。口の中で甘噛みして、舌先でくすぐり、強く吸い上げる。
「……ふ、んっ」
与えられる快感は、逃げ水のようだった。のぼり詰めたと思えばそうではなく、次が体を小波のように走る。歓びの果てはどこにあるのだろうか。ラシュリルは、朦朧としながらアユルを抱きしめた。温かくて、とても幸せな気持ちになる。
二人は、見つめ合ってどちらからともなく唇を重ねた。、舌と舌を絡ませては解いて、角度を変えてお互いを貪り合う。アユルが、またがっているラシュリルの柔尻をぐっと引き寄せる。真下から最奥を突かれて、ラシュリルは背をしならせて悲鳴を上げた。頭を突き抜けるような感覚に体中がぞくぞくする。ラシュリルはアユルの肩に手を置いて、今にも崩れてしまいそうな体を支えた。
「動いてみろ」
「どう、やって……?」
「気持ちがいいように、ほら」
アユルが、ラシュリルの腰に手を添えて導く。すると、恥ずかしそうに頬を赤く染めて、ラシュリルが前後に腰を動かし始めた。
「……こう、ですか?」
「そうだ」
余裕ぶって答えてみるが、達してしまいそうだ。ラシュリルのたどたどしくて歯がゆい動きに、アユルの眉根が寄る。もう少し身を任せていたい。もっと、もどかしくて淫らな姿を見ていたい。だが、もう限界だった。
「きゃあっ」
体が後ろに倒れて、ラシュリルの体がふかふかのクッションに沈む。仰向けになった体に激しく腰を打ちつけられて、大きく揺さぶられた。アユルが、獰猛に肉襞を擦って奥を何度も何度も突いてくる。蜜口からぬちゅぬちゅとあふれた愛液が、後孔まで滴った。
「あっ……、ああぁ……んっ、あぁああっ……!」
ばちっと視界に閃光が走ってそれきり、ラシュリルは完全に意識を手放した。
どれくらい時間がたったのだろう。ラシュリルが目を開けると、アユルがじっと見ていた。逞しい腕の中で微睡む。包まれている感じがとても心地よくて、このまま深く眠ってしまいたくなる。けれど、ここで一夜を明かすわけにはいかない。
「ラシュリル。私たちは一生を共にする。だから、悲しい顔をするな」
髪を梳くように、頭をなでられた。嬉しそうにはにかんで、ラシュリルはアユルの腕から抜け出して起き上がった。身なりを整えて、急いで離宮を出る。雪が積もった暗い道を、ランタンの明かりで照らしながら歩いた。海から不気味な獣のうなり声が聞こえる。
「王女様」
男の声に呼び止められて、ラシュリルは体をびくりと震わせた。
「驚かせてしまいましたね。お許しください」
おそるおそる後ろを向くと、コルダが立っていた。こんなに恰幅のいい人だったかしら、とラシュリルはコルダをランタンで照らして小首をかしげる。ラシュリルが不思議がるのも無理はない。コルダは、雪だるまのように着膨れていた。
「宮殿までお送りいたします」
「わたしは大丈夫です。あなたがいないと、アユル様が一人になってしまうわ」
「そのアユル様に、王女様を送ってさし上げるよう申しつけられました」
「そう、アユル様が。あなたには、お世話になってばかりね。ありがとう、離宮に入れてくださって。それに、カデュラスでも」
「わたくしに礼は不要です、王女様。わたくしはただ、アユル様に忠実なだけですので」
「コルダさんは素敵な人ね」
そうでしょうか、とコルダが照れたように笑った。
自室に戻ると、ナヤタが今にも泣き出しそうな顔で飛びかかってきた。遅くなってごめんなさい、と謝ってラシュリルはイスに腰かける。
「誰も来なかった?」
「はい、大丈夫でした」
ナヤタが、熱い果実茶を淹れたティーカップをテーブルに置く。果実茶で喉の乾きを潤して、ラシュリルはナヤタにイスに座るよう言った。
「あのね、ナヤタ。離宮に行って、カデュラスの国王陛下にお会いしてきたの」
「なぜです?」
「わたし、陛下のことが好きなの」
「……ラシュリル様」
「信じられない?」
「いいえ、ラシュリル様が嘘をつくような方ではないことくらい分かっています。ただ、びっくりしてしまって」
「黙っていてごめんなさい。隠し事をして、こうやってあなたに心配をかけるのは間違っているから、あなたにだけは打ち明けるわ。誰にも言わないでほしいの。お兄様やお義姉様にも」
「分かりました。誰にも言いません」
「ありがとう、ナヤタ」